顧問 村上俊樹

ヨット部30周年記念に寄せて

今、ヨット部の年表を作り直すために、昔のヨット部の資料を引っ張り出して読み返しています。 OBの先生方の、昔の学生時代の顔がついこの間のことのように、よみがえってきます。創部当時(昭和48年)は僕自身が若く(32歳)講師でした。 学生とそれほど年齢が離れていなく、学生と同じ気分でヨットに乗っていました。学生とは、夜の街にもよく飲みに行き、大騒ぎをしていました。 今は、納会等のコンパ以外は学生と飲むこともなくなってしまいました。少し寂しいですね。現在、大学のクラブの現状は入学してくる学生数の減少と体育会系のクラブの離れによって、各クラブ共に部員獲得に苦労しています。 ヨット部は、幸いにもそれほど減らずに毎年コンスタントに入部者があります。 今後も、部員数の増減の波はっても、順調にいくと思います。
平成21年には、2順目の新潟国体が開催される予定になっています。それに間に合うようにヨットハーバーが計画されています。このヨットハーバーができれば、 本学のヨット部も、そこに移転すると思います。これまでよりもずっと良い環境で、練習ができるようになると思っています。 ヨット部は、創部以来今年で31年目を迎えて、OB会員も70名を超え、デンタル優勝も4回もしている名実共に歴史と伝統あるクラブになっています。 毎年数名のOBを迎え、ますます発展していくことと思います。今後共に、会の目的である会員の親睦と後輩の援助のためにみんなで力を合わせてほしいと思います。

顧問 村上俊樹

浜茶屋社長 長井美雄枝

ヨット部30周年記念に寄せて

歯科大ヨット部創立以来の永い永い御付き合いとなり、ありがたいことと感謝しております。 毎年フレッシュな新入部員を迎えるのも楽しみですし、卒業されてゆかれたOBの方々が各地でご活躍され、時折り元気な顔をみせて下さったり、便りが届いたり本当にうれしい事です。私も何時の間にか 八十路を迎えましたが、若い皆さま方に助けられながら過ごしております。

浜茶屋社長 長井 美雄枝

監督 影向範昭

ヨット部30周年記念に寄せて

創部30周年おめでとうございます。創部して数年してからヨット部にお邪魔するようになりまして、25年以上の歳月が流れたことになります。 当時は木艇で風をうまく受けても走らず、操船技術は上達のしようがないという状態でしたが部活生活は本当に楽しかったようです。納会や新入部員歓迎コンパの 芸達者には腹を抱えて笑ったものでした。これからもヨット部とOB会が寄り添って益々充実していきますように祈念しております。

監督 影向範昭

追悼メッセージ/高橋健一

亀井さんとの思い出

~私達はいつまでも亀井さんを忘れません!~
亀井直樹さんは、平成2年度ヨット部の主将であり、現在のヨット部に非常に「貢献」してくれた先輩です。ヨット部を引退後、大学6年の平成3年1月16日、角田浜付近で不慮の交通事故により亡くなられました。


亀井さんは私の一つ上の先輩で、ヨット部で一番長い付き合いになります。亀井さんは私の兄貴的存在であり、色々と教えてもらい、良くケンカもしました。
 私達はヨット部の知識もなく、東京校の春合宿に亀井さんと僕と元松さんと行き、寒い中東京校の連中にいじめられながらもヨットについて学んできました。雪の降る中ヨットの中で亀井さんと新潟校もデンタルで表彰状をとれるようになろうと言い合い、ダニの出る合宿所で僕と亀井さんと頑張りました。 それまで、レーキ、ヒールの形状、テンションのかけ方、チューニング等、新潟校では何も教えていなかったことが毎日厳しく教えられ、毎日が新しい事を学ぶ連続でした。
合宿で1日フリーの時間があり、毎日、生玉子とごはんばかり食べる生活が続いていたので、たまには焼肉を食べに行こうと焼肉屋に行ったのですが、新潟と違い湘南の焼肉屋は高い!カルビ一皿1,000円もしたので私達は金がなくて食べられず、私はホルモン一皿350円にごはん、亀井さんは野菜焼き一皿200円にごはん、スープで、二人で食べて、それも(ごはんに焼肉のタレをかけて)食べました。食べながら“将来は焼肉屋で、値段を考えずに好きなだけ食べれるようになろうな”と二人で誓い合いました。  その合宿の最後に関東医科歯科ヨットレースがあり、私は亀井さんと乗り、3位になり、私も初めてヨットレースで賞状をもらい、本当に嬉しかったです。
新潟に帰り、新入生の部員を見たら5人しかいなくなり、運良く山崎君が入部してくれたので6人になりましたが、6人では当時船台も(タイヤが付いているのがなかった!)なく6人では舟も持ち上げられないので、なんとかお金を工面して、タイヤが付いた移動式の船台を買い、亀井さんと感激していました。
その後も新潟を強くしよう、と亀井さんはヨットの技術面で良く勉強し、山崎が一年生の時「お前はヨット部の主将の時にはデンタル優勝しなければならないんだ。だから一年から英才教育だ」と私と二人で「やさしく」指導しました。 ただ、亀井さんは、部のマネージメントが全くダメで、良くケンカをしたのも今となっては良い思い出です。
その年のデンタルには私は亀井さんと二人で出て、台風で海が荒れている中「旧艇」(ボロイ!)で出たのですが、もう少しでゴールという所でサイドステージがとび、バウリベットがとび、車のボンネットのように開き、沈しました。 二人で泣きながら、なんとか起こすぞと起こそうとしましたが、無残にもセンターボードが落ち、「終わった~」と二人でボートの上で泣きました。そうしているうちに、どんどん流され、さらに船のエアタンクに水が入って来て、だんだん沈み出し、二人で本当に救助艇が来るだろうかと心配になり、荒れる海の中、船につかまりながら「どうてい捨てといて良かったな」と言いながら助けを待った時もありました。 私のヨット部の思い出に、ほとんど亀井さんがいます。
私が5年生の1月、突然の不慮の交通事故で亀井さんが去ってしまい、本当にショックでした。私の主将としての初大仕事が亀井さんの葬式でした。本当に残念でした。

~天国の亀井さんへ~
 もう、あれから10年以上過ぎましたね。おかげさまで、仕事も順調にいっています。約束どおり亀井さんの分も頑張っていますよ。
あの、女風呂のぞきや、パンティーどろぼうをしていた山崎も現在は卒業し、立派に歯科医師として地域医療に貢献しているようです。安心して下さい。これからもヨット部を天国より応援して我々を見守っていて下さい。

亀井さんとの思い出

追悼メッセージ/山崎 保彦

亀井さんとの思い出

私が大学1年生の時、亀井さんは4年生の先輩でした。メガネが良く似合い、いつもにこやかで冗談も親父臭く、笑い声が絶えなく飛びかっていたことを思い出します。しかし、海の上ではまるで別人でした。ヨットを語らせれば上級生の先輩を上回る知識を持ち、ヨットの技術はまさにSuper Techniqueでした。 そうした先輩に憧れ自分も早くヨットに乗って亀井さんにヨットについて教えていただきたいと思っていました。
それも早い時期に叶いました。なぜなら、その時の部員数は7人しかおらずスナイプの古い艇(木でできた艇)が余っていたからです。その艇で亀井さんと出廷し、いよいよ練習です。オラー山崎シート引くんだよー!という風に蹴りが飛んできました。タックだ!と自分なりにうまくできたかなと思っていても何だ!今のタックは!と、やはり蹴りが飛んできました。このように日々蹴りの嵐で何度か蹴りをかわしましたが、その弾みで海にドボンと落ちることもありました。 練習が終わると必ず、がんばったねー山崎と声をかけてくれました。今日はここがよかったな!とよく励ましてくれました。
そのお陰でヨットの面白さ、奥の深さを亀井さんの背中から感じることができました。
470に初めて乗ったときのスキッパーは亀井さんですごく怖かったことを覚えています。
翌年の5月の合宿で嵐の翌日でウネリがひどく風も強い日に出ました。山崎トラッピーズで出ろ!と言われたが、いくら鬼の亀井が出ろと言っても出ることができませんでした。その事が悔しく必至でマスターしました。時にはヨットマニアの亀井さんに、ヨットはイメージが大切だ!とビデオを貸してくれることもありました。 その様な亀井さんに刺激されその頃からか、いつかは、鬼の亀井に追いつき追い越したいと思いはじめました。
 亀井さんが引退後、不慮な事故があり、大事な人を失った悲しみは耐えがたいものがありましたが、部員一同一体となり全力で練習に励みました。
その様な先輩のお陰もあり、私自身のヨットに賭ける情熱がHeatし、優勝に導かれたのではないでしょうか。

亀井さんとの思い出

追悼メッセージ/高橋健一

追悼 峯岸孝安先生

学生時代から峯岸先生には大変お世話になりました。矯正のテストは教授の授業がわかりにくく、みんな赤点を取っている中、私は峯岸先生に矯正を丁寧にわかりやすく教えていただいたおかげで99点を取ることができました。クラブの行事は欠かさず参加してくれて、 私のいい時悪い時すべてを知っている貴重な先生でした。そんな峯岸先生が病に倒れ、病状を倉沢先生に聞いてショックでしたが、私も死にかけたのできっと峯岸先生も復活してくれると信じていました。
おかげさまでヨット部40周年記念式典も無事終了し、見届けるように峯岸先生は残念ながら逝ってしまいました。告別式の時私は電車を間違え、高崎に遅れて葬儀場についた時には、お焼香の最後でギリギリ到着、無事お焼香を済ますことができました。その後、最後にもう一度、峯岸先生にご挨拶をしてから帰ろうとしばらく待っていたら、偶然にも祭壇の前で2人きりでお会いすることができました。本当に最後の最後に、2人きりでお会いすることができ、先生のお顔を拝見して、何か話しかけてくれているのがわかり、 非常に悔しい思いでいっぱいになりました。長年、先生はOB会の会計担当としてご尽力していただきました。本当に残念です。どうぞ安らかに。

峯岸孝安先生

追悼メッセージ/高橋健一

追悼 元松靖雄先生

私が新入部員で入ったとき、元松さんはいつも黄色いヘルメットをつけていました。 私の2つ上の先輩であり、当時住んでいた明星ビルの向かいのアパートに元松さんは住んでいたこともあり、非常に面倒を見てもらいました。先生が卒業してからはお会いすることはなかったのですが、同級生が元松さんと同じ歯科医院に勤務していたので、元松さんの話は聞いておりました。ちょうど元松さんが開業すると行っていた頃、東京の足立区に住んでいたこともあり、一度遊びに行こうと思っていた矢先、自分の父が亡くなり急遽仙台の診療所を継ぐことになり、バタバタしていて元松さんにお会いすることができませんでした。そうしていたら突然、元松さんは逝ってしまいました。元松さんのご実家にお焼香にお伺いしましたが、残念ながら、不在にてお会いすることができませんでしたが、後日、お母上よりお電話をいただき、私のことをよく話題にしていただいていたと聞き、嬉しかったです。
先輩の亀井さん、元松さん、と自分の直属の先輩をなくしてしまい本当に悲しいですが、私は苦しい時は、元松さん、亀井さんが力をくれていると信じて頑張っています。私も、お迎えはいつ来るかわかりませんが、もう少しやること、やらなければならない事があるので先生方の分まで頑張りますから、見守ってください。すべてをやり尽くしたら、先生の元に参りますので、その時は沢山土産話をもっていけるよう、しばらく頑張らさせてください。

元松靖雄先生

追悼メッセージ/高橋健一

追悼 赤尾君

君には馬鹿野郎という言葉しか見つからない。ヨット部が存続危機の時、君は同級生6人とともに入部してくれました。突風で沈没騒ぎで海上保安庁にお世話になった時、俺と赤尾が乗っていた船は沈することなく、ハーバーに帰すことができました。赤尾は、知らん酔っ払いとよく喧嘩をしていて、あまりに酷いので、髪を坊主にさせたこともあったし、俺が引退した後にもかかわらず、笹原に連れて行かれて古町で喧嘩の仲裁、毎回、正座させて、お前にビンタをしていました。
俺が卒業したあとに留年、心配していた退学と、俺たちの前からいなくなってしまいましたが、30周年記念式典の時に、ケイジが新潟で赤尾君と会い、元気にしていたと報告を受けましたが、心配しておりました。しばらくしたら、“赤尾が死んだ!”と聞き、バカ野郎!と思いました。本当に残念です。俺はバカほど可愛いと思っており、君の同級生6人の中で一番心配で一番手を焼いて、一番ビーサンでケツを叩いたと思います。あれだけ可愛がったのに本当に残念です。涙が止まらない。次の世では、立派になった赤尾に会えるのを楽しみにしています。

赤尾君

追悼メッセージ

追悼 立花文彦

「たっちゃん、たっつあん、たちばな・・・」
昭和54年4月に、私達は日本歯科大学新潟校に入学し、それとほとんど同時にヨット部に入部した。同期は5名、個性的なメンバーの中で立花は、いつも穏やかで争いを好まない「たっちゃん」だった。 私は1年の時、立花のミラージュで放課後よく出かけた。車好きの彼の車では、いつも洒落た音楽がかかっていた。浜浦祭恒例のクラブ対抗「おかま大会」において、ヨット部代表の我々は「キャンディーズ」の「年下の男の子」をステージで披露した。これは、大のキャンディーズファンである立花の自宅で、レーザーディスクを見ながら、毎晩特訓したもの。 我々にレッスンをする立花の、腰の入った踊りにはびっくりした。また、彼はほとんどのキャンディーズの曲を踊り、歌うことができた。彼の音楽の趣味は多彩だった。そして肝心のヨットでは、彼は名クルーだった。穏やかな性格の立花が、ヨットの上では大きく声をあげ、他の艇を牽制し、そして鋭い目で海を見ていた。 立花が祐治と組んでデンタルで活躍した日のことを、強風のあの日蒲郡にいた私達はみんな覚えている。さて卒業後、お互い日々追われるように時がすぎ、会うこともなく中年も半ばになった頃、立花の訃報を聞いた。 卒業後、立花はどんな生活を送っていたのだろう、なぜ会いに行かなかったのか、せめて電話でも・・・今思っても詮無いことばかり。早くに逝ってしまった友人を惜しみます。

追悼メッセージ/武井徹

追悼 鬼塚俊治

「鬼塚さんってどういう人だったんですか?」と後輩に聞かれて、何と答えようと考えこんでしまうことが多いことに今更ながら気が付いた。今回、40周年記念誌ということで、当時のことをもう一度思い出してみたい。  彼は、大学入学前から水上バイクが好きで船舶免許を持っていたことからCAB2にいつも乗っていた印象がある。一年の時は一緒にCAB2の上でヨットの話や好きな音楽の話などをしながらマークを打ったり、スタートラインを引いたりとCAB2の仕事をすることが多く、 だんだんと仲良くなっていったのを覚えている。CAB2の上での彼の信条は「いつもフルスロットル!!」で波が立っているときでも限界まで速度を出して、船首に波がガンガンあたってバランスを取るのが難しかった。(ただしこれは男性(同期?)限定らしく、 女性が乗っているときは優しい運転をするように気を使っていた?)書いていて思い出したのだが、2年の時に「いつもCAB2に乗っていて楽しいのだが、船舶免許の関係でヨットに乗る機会があまりないのが嫌だ。」と相談されたことがあった、 当時何を答えたかは覚えていないが、彼は海が好きで、ヨットでも早くなりたくて悩んでいたように思う。2年のデンタル後に1年が船舶免許を取り、よりたくさんヨットに乗れるようになったときにすごくうれしそうだったのを覚えている。
  2012年に福岡でのデンタルの後、結果報告を兼ねて、熊本県水俣市にある彼の実家にお邪魔させていただいた。彼の仏壇の前に、彼とのお別れの時に書いた寄せ書きと、メッセージが書かれた部活のTシャツが当時のまま置いてあった。傍らの写真集はこのページにもある、彼が私の頭を抱えている写真のページが開きっぱなしになっていた。私は懐かしさと嬉しさで本当に涙が出た。当時のままにしてくれている御両親の配慮にただただ感謝である。 3年の時に彼は亡くなったが、3年の4月にした「今度一緒にヨットに乗ろう。」というまだ果たせてない約束を彼は忘れないでいてくれるはずだ。 俊治、気長に待っててくれよ!

武井 徹

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